浮世絵で見る芝・品川

第8回 品川すさき/南品川鮫洲海岸

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:品川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸に二つの洲崎弁天

芝に関する浮世絵はだいたい取り上げたので、次はいよいよ品川ですね。それはそうと蔵三さん、昼間から酒臭いですよ。飲んでばかりいるから病気になるんですよ。こないだ入院したばかりなんでしょ。

うるせ〜なぁ。糖尿病に前立腺炎に五十肩だ。アンタに言われなくても病気のアパート、じゃなくてデパートだよ。ちょっとぐらい酔ってたって話はできるんだよ。品川の浮世絵だろ。それならまずはこれだ。「品川すさき(写真左)」ね。

鳥居があるから神社みたいだけど、ここってどこですか? 全然見当もつかない。


ここに描かれた神社はまだ残っているよ。東品川一丁目の区立台場小学校の近くにある「利田(かがた)神社」だ。

え? 台場小学校は運河には近いけど海からは結構離れてますよ。この絵を見るとすぐそこは海みたいだけど…。

そう。その通り。かつてこの神社は海に面していた。像の鼻みたいな砂州の突端にあったから江戸初期には洲崎と呼ばれていた。神社の創健は沢庵和尚で、寛永3年(1774)に弁天様を祀ったから通称洲崎弁天、風光明媚で潮干狩りの名所だったらしいよ。

ゾウの鼻って言われてもイマイチ想像できないなぁ。


それならこの幕末の地図を見てみるといい。ゾウの鼻の先端にあたる赤い部分が洲崎弁天だ。蛇行して流れる川が品川だ。

あっ、本当にゾウの鼻なのね。でも、品川っていう地名は川の名前だったの?初めて知ったわ。

実際には目黒川だよ。海に近い河口付近は物流が盛んで、品物の行き来が盛んだったから品川って呼ばれるようになったわけ。もともと大きな舟で海から来た物資を小さな舟に乗せ替えたのが古くからあった品川湊(みなと)なんだ。

ふ〜ん。でも、どうして今はこのゾウの鼻がなくなっちゃったの?


明治以降、どんどん埋め立てられたんだよ。江戸時代には品川の辺りにもたくさんの砂浜があったし、中にはこの洲崎弁天みたいな庶民のための観光地もあった。

でも、どうしてその洲崎弁天が利田神社になったの?


安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけて、南品川宿の名主だった利田吉左衛門がこの辺を新田開発したわけ。それで利田新地と呼ばれるようになって、いつの間にか神社も利田神社と呼ばれるようになったようだね。

土地の開発をした人の名前が地名になって、神社の名前まで変わったってことか。


同じような例として、江東区砂町ね。あそこはもともと砂村新左衛門という人が開発したから砂村という地名になったんだけど、後にお役所が砂村という村の名前だと勘違いして、砂町にしちゃった。本当なら砂村町にすべきだったんだけど…。ちなみに、砂町の近くにある木場の洲崎神社ね、あれももともとは洲崎弁天という神社で、やっぱり潮干狩りなんかの行楽地で有名だった。

じゃあ、江戸時代には洲崎弁天が二つあったっていうこと?


その通り。だから結構混同しやすいんだ。木場の洲崎神社は当時、小島の上に造られていたんだけど、寛政3年(1791)の大津波で壊れちゃった。だからここには注意を喚起する意味で「波除碑」が建てられて、今でも残っているんだ。ちなみに品川の方には「鯨塚」っていうのがあるけどね。

鯨塚って、まさか品川沖で鯨を捕っていたとか?


寛政10年(1798)5月に、品川沖に大鯨が迷い込んできたから、地元の漁師が浅瀬に追い込んで捕えたんだ。これが評判になって、11代将軍の徳川家斉がわざわざ浜御殿に見に来たらしい。それで記念碑まで建っちゃった。昔は反捕鯨団体なんかなかったからね。おおらかな時代だよ。

品川の海に鯨が迷い込むなんて、今じゃ信じられないわね。


洲崎のあたりは別名漁師町といって豊かな漁場でもあったんだ。


なるほど、品川の名産は江戸前の魚だったってことかぁ。ところで、江戸前の魚ってどんなの?


アナゴ、マコガレイ、スズキ、サバ、キス、コハダ、ハゼ、シャコ、ノリ、アサリ、ミル貝、鳥貝といったところかな。前にも話したように、江戸前といえば鰻の代名詞だった時期もある。でも品川産は魚介だけじゃないよ。品川の沖は湿地じゃなくて遠浅の海だからね。この浮世絵(写真右)、同じく名所江戸百景の「南品川鮫洲海岸」を見れば一目瞭然だ。海岸線にそってず〜っと何かが並んでるだろ。

あ、本当ね。柵みたいなものがたくさんあって舟も出てる。これって何だろ。


海苔の養殖ですよ。この絵を拡大するとこの写真(下=大田区立郷土博物館)になる。海苔そのものは古代から食べられていた記録が残っているけど、今私達が海苔と呼ぶもの、つまり紙状にして乾燥させた板海苔ができたのは江戸時代からで、大森で収穫された海苔を、和紙の技術を応用して浅草で作られたのが最初と言われているんだ。これがいわゆる「浅草海苔」だ。

そう言えば大森の海苔って今でも有名だもんね。でも、江戸時代にはすでに養殖してたのね。すご〜い。

乾燥させれば保存が効くから流通範囲も広くなる。すると供給量が一気に増えるから養殖も発達する。もっとも、この時代にはまだキチンとしたノウハウがなかったから、収穫は安定しなかった。だから大量生産が可能になるのは第二次大戦後だ。ちなみに山本山のようにお茶を扱っていた業者が海苔を扱うようになったのは湿度管理の技術を応用できたからなんだ。

ちょっと気になるんだけど、その絵の題名になってる「鮫洲」って今の鮫洲と同じ場所?


同じだよ。埋め立てられてしまって殆ど面影はないけど、そもそも鮫洲という地名は鎌倉時代に漁師が水揚げした鮫の腹を割いたら観音木像が出てきて、それをご本尊に北条時頼が建立したのが今の海晏寺だという言い伝えがもとになっていて、この絵で描かれた沿岸の林がその海晏寺なんだ。

鮫の伝説がもとになったわけね。じゃあ、江戸時代には海晏寺の東側は海だったんだ。


東海道は海沿いの道だったからね。但し、海晏寺の話はあくまで伝承であって裏付ける資料はないんだ。砂水とか左水と書いて「さみつ」と呼んでいたのが「さめづ」に変化したという説もある。まぁ、鮫の話の方が面白いんだけどね。
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