浮世絵で見る芝・品川

第3回 芝神明増上寺〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:品川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

仏教の世界はムズカシイ…

そろそろ増上寺の歴史についても話さないとね。増上寺の正式名は三つのご縁の山と書いて三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)。浄土宗のお寺だ。

宗派のことはわからないけど、三つのご縁って、どんな縁? 縁結びの縁ならすぐお参りに行くけど…。

最近の若い娘は、すぐパワースポットだのなんだのとほざいて、やたらと携帯で写真撮りまくるからなぁ。神様も仏様も呆れるだろうよ。三縁というのは親縁・近縁(ごんえん)・増上縁の3つだ。簡単に言えば親縁は親類縁者の縁、近縁は隣近所の縁、増上縁はここから派生してさらに広がる縁ということ。法然が広めた浄土宗は、念仏を唱えることで誰もが成仏できるという教えだから、この三縁というのは、普段から欠かさず念仏を唱えることによってもたらされる御利益のようなものだな。

あはは。何だか蔵三さんがお坊さんに見えてきたわ。念仏って「ナムアミダブツ ナムミョーホーレンゲキョー」のこと?

正しくは「南無阿弥陀仏」が浄土宗の念仏、「南無妙法蓮華経」が日蓮宗の題目、その両方を唱えるのが天台宗だ。だからキミが言ったのは天台宗。

え〜、わけがわかんない…。



もっと詳しく言えば天台宗では朝に法華経、夕方に阿弥陀経を唱える。これ以上話すとますますキミが理解不能になりそうだから、とりあえず念仏の意味だけ教えよう。「南無阿弥陀仏」というのは、阿弥陀仏に帰依します、仏様を拠り所に致しますという意味だ。法然という人は大乗仏教の精神を実にシンプルに形にした、世界でも類を見ない革命的な宗教家なんだ。それが、念仏さえ唱えれば誰でも救われる、極楽浄土に行けるという教えだ。

確かにわかりやすいわね。ナムアミダブツって言ってればいいんでしょ。でも、大乗仏教って何のこと?

仏教を広めていく上での考え方だな。大乗仏教の反対が小乗仏教で、小乗仏教というのは、釈迦のように厳しい修行を積んだ者だけが成仏できるという考え方。大乗仏教は、苦しむすべての生き物が等しく成仏できるようにしようという考え方。言い換えれば、選ばれた者だけを小さな船に乗せて悟りの彼岸に渡すか、なるべく多くの人を大きな船に乗せて渡すかということなんだ。

なるほどね。何となくわかったようなわからないような…。


ニュアンスとしては、プロ野球も草野球も野球には変わりないってことさ。野球というスポーツの裾野を広めていこうとすれば、結局どちらも必要になる。法然の考え方は、細かいテクニックやルールを覚えなくても、友だちとキャッチボールをやってみなよ、それだけで野球の楽しさがわかるよってなもんだな。

う〜ん。そう言われればわかるような気がする。


キミを相手に仏教の話をしたら一生かかっても終わりそうにないから、話を元に戻そう。増上寺の前身は光明寺といって、平安時代、空海の弟子であった宗叡(しゅうえい)が今の紀尾井町あたりに建てたと伝えられている。創健したのが空海の弟子ってことはそもそも真言宗のお寺だったんだけど、室町時代になって、聖聡(しょうそう)という真言密教のお坊さんが改宗して浄土宗の高僧になった。で、この聖聡が明徳4年(1393)に光明寺を継ぐことになって、お寺も浄土宗に改宗、名前も増上寺にしたというわけ。

住職が変わればお寺も変わるということね。



だから実質的な増上寺の開祖は酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)ということになる。三河の松平家以来、浄土宗の門徒であった徳川家康が、江戸にあった浄土宗の寺にシンパシーを感じたのは自然なことだと思うけど、なぜ増上寺が徳川家の菩提寺にまで発展したのかは、はっきりとはわかっていないんだ。

お寺の方に記録とか残っていないの?



天正18年(1590)の江戸入府の際に、たまたま家康が増上寺の前を通りかかった時に、住職の慈昌と知り合って、師弟の関係になったというのが通説だ。当時の江戸は何もない関東のド田舎だったわけだから、熱心な信者だった家康が浄土宗の寺を見つけて喜んだことは確かだろうね。

その頃はまだ紀尾井町にあったんでしょ。いつ頃芝に移転したの?


そんな経緯もあって、一時は江戸城に近い日比谷に移転したんだけど、城の拡張に伴って慶長3年(1598)に芝に再度移転したわけ。1598年ってことは、関ヶ原の2年前だね。

ふ〜ん。芝を選んだ理由とかってあるの?



一般に江戸城を中心にして「鬼門」つまり北東の方角に寛永寺、「裏鬼門」つまり南西の方角に増上寺を置いて「鬼門封じ」にしたっていう説があるけど、増上寺は正確に言うと南西ではなくて南南西にあるからね。ちょっと違うような気がする。では、実際の「鬼門封じ」はどこなのかと言うならば、北東の神田明神、南西の日枝神社と考えた方が自然なんじゃないかな。

そもそも「鬼門」の意味がわからないわ。



キミに風水だの陰陽道なんかの説明をしているときりがないから、その話はまた別の機会にしよう。それより、いつものように浮世絵を見てもらおうか。こちら(写真左)は広重の「江戸名所百景」から「芝神明増上寺」だ。絵の中央下にいる団体は地方からのお上りさんだろうね。増上寺を見ての帰りに、みんなで「いや〜、立派だなぁ、おらが村の鎮守様とは比べものになんねぇ」「ありがたや、ありがたや」なんて言ってるところだね。

うしろにお坊さんの団体が見えるけど、あれは何?


修行僧達の托鉢だね。増上寺の修行僧は83の学寮に3000人いたと言われているんだけど、その日の課業が終わると、七ツ、つまり午後4時の鐘を合図に各寮から10〜20人が一組になって日暮れまで托鉢に出かけるんだ。これは七ツ坊主って言って増上寺名物のひとつだったんだよ。

托鉢って、お金とかお米をもらいにいくんでしょ。托鉢に行かなきゃならないほど、増上寺のお坊さん達は貧しかったの?

修行の一環だよ、修行。托鉢と物乞いは本来の意味が違うんだよ。お布施を受け取りに行くわけ。ああ〜、キミを相手にしてると何だか本当に自分がお坊さんみたいな気分になってきた。托鉢とかお布施の意味は自分で調べろよ。それよりこっち(写真右)を見てよ。三代豊国と二代広重の合作で、さっき話した七ツの鐘を鳴らした増上寺の鐘を描いたものだ。

鐘はどこにあるのよ。って言うより、親子連れを描いているとしか思えないけど…。


鐘を描かずに鐘の音を聴く人を描いているわけ。増上寺の大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川の御殿山で椎名伊予守によって鋳造されたもので、高さは約3m、重さは約15t。江戸で初めての梵鐘といわれているんだ。

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